里親アーカイブス

第2回
2020年12月18日up
人様に心を向け、喜びも悲しみも子どもたちとともに。

【前編 生い立ち編】

飯島博さん(春日部市)
 

 第2回里親アーカイブスでは、春日部市にある天理教会の会長である飯島博さんにお話をうかがいました。現在81歳の飯島さんは60歳の還暦を過ぎてから養育里親に登録され、これまでの約20年間に長期短期合わせ17人の子どもたちを奥様のひろ子さんとともに養育されてきました。還暦を過ぎてから里親としての養育を始めた飯島さんでしたが、里親制度との出会いは早く、埼玉県の天理教会の厚生部長として、教会長を対象とした里親啓発活動をされていました。すると飯島さんから里親の話を聞いた方が次々と里親になり、「それなら自分も里親に」と飯島さん自身も里親になりました。そして今度は、養育に励む飯島さんの生き方に刺激を受けた方々が里親登録し、里親の輪が広がっていきました。

 

疎開者との共同生活

 私は昭和14年に春日部市で生まれ、父が創立した天理教会で育ちました。戦争の時、私はまだ幼かったのですが、東京方面の空が真っ赤に見えたのを覚えています。昭和20年の東京大空襲でした。春日部は田舎だったので、東京の人がたくさん、疎開に来ていました。昭和22年か23年頃の話ですが、当時はアパートというものがなかったので、両親がさまざまな理由で住む家がない人たちを家族ごと預かっていました。一緒に暮らしていたのは家を失った20人ほどの人たちです。両親がその人たちをお世話するのを見ていたので、私も大きくなって、もし教会をまかされたら、そういう方々の力にならねばと思いました。

 

2歳の頃、天理市にて父の教えの師と一緒に

 

神が見ている、気を静め

 幼い頃、手に負った火傷のことで友達から差別を受けたことがありました。1歳の時、よちよち歩きの私は火鉢に手を突っ込んでしまい、手の指が内側に団子のようにくっついてしまったのです(現在は足の皮膚の一部を手に移植して治っています)。それで6歳の頃、誰が悪いわけではないけれど、近所の子どもたち同士で喧嘩すると、分が悪くなった子が「飯島は、そんな手のくせに!」と手のことを持ちだして、差別的なことを言うのです。手のことを言われると私も泣き虫で、何も言い返せませんでした。

 
いじめられて家に帰ると「人が何を言おうと神が見ている 気を静め」という歌を思い出していました。なぜかというと、両親がお祈りの際に唱える歌の一節に「ひとがなにごといはうとも かみがみているきをしずめ」というものがあったからです。これは本来、神様を信仰する大人のための言葉で、「どんな逆境のなかでも神様が見ているから、真剣に信仰していけば、りっぱな運命になるよ」という内容なのです。でも私は6歳だったので、子ども流に解釈しました。どんな状況でも自分が悪いことをしなければ、神様は見ているのだから、どんなにいじめられたって、必ず自分は良い方向にしてもらえるんだ。神様が導いてくださるんだ。そのように自分で解釈できたわけです。その頃から何となく信仰というものが私に芽生えたようです。

 

布教に熱中した独身時代と結婚

 26歳の時、私は実家を出て八王子で布教を始めました。当時は苦しい人、悩む人たちと一緒に共同生活することに熱中しており、早く立派な教会を1つ、つくりたいと思っていました。私の結婚を望んでいた両親はその様子を見て危機感を持ち、「社会的な信用を得るためには結婚しなければならない」と何度も私に言いました。もともと父の反対を押し切って八王子に行った私は、親の言うことを聞かず、親不孝ばかりしてきました。結婚する気はありませんでしたが、「杉戸町に教会があって、娘がいるから会ってみないか」と言われ、その時ばかりは親の言うことを聞いてみようと思い、家内を見に行きました。

 

昭和43年 結婚

 

 そして家内に会ってみて、いけそうだなということがわかったので、それから1年ほどお付き合いしました。手紙もなん十通もやりとりして、「私には持ち物が何もないのだから、結婚したら苦労するよ。でも将来は絶対に玉の輿に乗せてあげるからお嫁に来ないか」と伝えていました。当時、家内はまだ19歳の世間知らずだったので、私の甘い言葉にコロッと乗っちゃったのですよ。「自分にはあの人しかいない」と家内は思ってくれました。ですが、家内の父親はとても心配したようです。私が住んでいる家を見に来た後、心配のあまり、3日間ご飯が食べられなくなったそうです。実際、私の持ち物はテーブル替わりのりんごの木箱、お茶碗、箸、鍋だけでした。
 家内とは私が29歳の時に結婚しました。家内は20歳でした。新婚旅行は私の思いで天理に行きました。でも、いくらか経ってから、2泊くらいで伊豆にも行きました。

 

第2の新婚旅行で伊豆へ

 

還暦を迎えてから里親登録へ

 八王子で長女が生まれた後、私たちは父母のいる春日部の教会に戻りました。そこから4人の子どもたちが生まれ、子育てがあったり、布教があったりで、里親登録に至るまでには時間がかかりました。そして時が過ぎて還暦を迎えた私は、これから美味しいものを食べたり、旅行することもできました。でも、教会がほとんどの面で結構すぎるくらい結構になったのだから、神様にさらにお礼をしなければならないと思いました。それで平成11年、里親登録したのです。子どもに限らず恵まれない人を助けようと、神殿の奥には、11部屋を用意しました。

 

おたすけと里親養育

 昔の話に戻ります。私は埼玉県の天理教の厚生部長をやっていたことがありますが、その時にまず着手したのが献血でした。それが軌道に乗ったので、今度は埼玉県に天理教の里親会をつくりました。当時、埼玉県には天理教の里親が数人しかいませんでしたが、埼玉県を日本一の里親の県にしたいと思い、毎年2月3日に里親の研修会を開きました。

 当初は研修会を開いても2~3人しか受講者が来ませんでした。でもその時に私が訴え続けたのは、「天理教では人間の体は神様からお借りしているものです。そして心は自分のものです。お借りしている体を使い、皆さんのものである心を人様に向け、人のご苦労を見て、ともに喜び、悲しみ、ともに苦労させていただくことによって、多くの親のない子どもたちが助かるのではないですか。神様から借りている体で、困っている子どもの頭を撫でてあげ、食べ物を差し上げ、お風呂に入れて差し上げませんか」ということです。天理教の教えで一番大事なのはおたすけです。おたすけの内容は多岐にわたりますが、里親をやることもおたすけの1つなのです。

 すると、1年に二組、三組と里親が徐々に増えていきました。そして十組ほど里親が増えると、皆さんが「飯島先生の話を聞いて里親になる気持ちになりました」と里親体験発表会でお話してくださったのです。でも、私自身は里親をやっていないわけですよ。これはまずいなあと思って家内に「いっぺん、里親の研修会に出ておいでよ。みんな『飯島さんのおかげで里親になった』と言ってるから、その雰囲気をみてほしい。できれば自分も里親をやってみたいから」と伝えました。家内も研修会に参加して、すっかり里親をやる気になってくれました。

 里親を始めたある時、教会の朝づとめの後で参拝者の方々とお茶を飲んでいて、養育している里子たちの話になりました。すると突然、家内がニコニコしながら、「私、最近、里子にはまっちゃったの」と言いました。家内が里子たちについて楽し気に語る表情を見ながら、内心「やった!」と叫びました。家内が里親になることを承諾するまで何年間か、かかりました。里子を預かってからは、地域の理髪店が無償で散髪を奉仕してくれたり、お米を買わなくて済むようになったり、食べきれないほどの野菜を届けてくださる方も出てきました。どれも予想していなかったことです。今、社会は豊かすぎて、私たちも1つ間違うと、それに流されかねません。そして困ったことにその豊かさに隠れて見えにくいのが、日本だけでも3万人あまりいる施設で暮らしている児童の存在です。この恵まれない児童に手を差し伸べることこそが大事だと思うのです。