里親アーカイブス

第1回
2020年1月20日up
何かあったら一緒に来なさい。一緒に生活しよう。

【前編 生い立ち編】

丸山雅子さん(川口市)

おさなご園(託児所)の開設

 おさなご園を開設したのは昭和44年で、次男が1歳の時です。近所の子どもたちを助けても助けてもだめで、 どうしたらいいか悩み、キリスト教会に「この子達を助けてほしい」と言いに行ったのが、おさなご園の始まりです。

 私はミッションスクールを出ていたので、やっぱりそこはキリスト教会に行かざるを得なかったんだろうなあと思います。その時、牧師さんが「あなたは自分の子どもをいい子に育てたいですか」と聞いてきました。私は「もちろんですよ。私みたいな人生は味合わせたくないです。子どもたちをいい子にしたいです」と返事しました。牧師さんは「それなら教会にいらっしゃい」とおっしゃいました。

 同じ頃、2歳になる前の長女が脱腸になり、手術のため入院しました。入院中はやることがないので、病院に聖書を持っていって、マタイ伝を読みました。退院後には牧師さんから「洗礼を受けませんか」と言われました。「なに言ってるんだ、私なんて洗礼を受けられるような人間じゃないよ」と思ったので、「すいません、家族と相談してみますから」と言って、実家に電話しました。母に洗礼の件を伝えたら、「え?あなたが洗礼を受ける?」と驚き、電話の向こうで、私の兄や弟が「なに?洗礼を受ける?それは神様を冒涜しているよ」とみんなで笑っていました。

 それを聞いた途端、「ちくしょう、それなら神様に懸けるぞ」と思って洗礼を受けました。そして、何か神様のお役に立てることをしなければならないなと思っていたら、牧師さんが「小さな子どもを預かってみることをやってみませんか 」おっしゃったので 始めたのがおさなご園です(現在は認可保育園)。

A君との出会い

 おさなご園を始めてから1年半後、A君がお父さんに連れられて園に来ました。A君の両親は離婚していて、お母さんは遠く離れた場所で再婚していました。しばらくしてA君のお父さんが失踪してしまい、お母さんとも暮らせないことがわかったので「あんたが二十歳になるまでは、ばば(編集注:雅子さんのこと)と一緒にいるしかないね」とA君に言いました。A君は「うん」と言って、それきり何も言いませんでした。

 A君はお母さんとその再婚相手と暮らしていた時期があり、ずいぶん怖い目に遭ったようでした。ウチに来た時、部屋の隅に隠れるし、抱っこしようと思っても「助けて」と叫ぶし、大変でした。 当時、犬を飼っていたので犬の首輪を見せて「これなんだ?」と聞くと、A君は「殺すもの」と答えました。包丁も「殺すもの」だと言っていました。

 あの頃、虐待という言葉を私は知りませんでしたが、本当にA君の状態はひどかった……。ご飯は、たくあんかお味噌汁があれば食べられるけど、その他のものは食べられませんでした。園では「助けて、助けて」と泣きながら、ほふく前進していました。A君には他にも身内の人間がいましたが、誰もAくんの世話をしようとしませんでした。

 夫の武夫さんもさすがに憤って「誰もA君を育てないんだったら、俺が育ててみせる」と言いました。その時、私は武夫さんに対して「育てると言ったな、今言ったな」と思いました。

A君の育て方に悩んで里親登録へ 

  A君が3歳の時に一緒に暮らし始めましたが、子育てに悩み、どうしようもなくて市役所に相談にいきました。「この子をどうしたらいいでしょうか」と相談したら 「里親という制度があるのですが、どうでしょうか」と教えてもらいました。「はあ、そうですか」と言って、その時初めて里親制度に入れていただいたのです。

 A君が今どうなっているのかわかりません。16歳の時に家出したのです。A君が一度、家に帰った時、衣服を買いに一緒に出かけました。その帰り際、店のトイレに寄ったA君を私は駐車場で待っていましたが、そのままいなくなってしまいました。今でも、家族みんなで探していますが、何もわかっていません。どこに行って調べてもわからないのです。 13年間一緒に暮らしましたので、本当に悲しかった。

さらに悩んで保育専門学校へ入学 

 A君が幼かった頃に話を戻します。A君をきっかけに昭和46年頃、里親登録して、A君を里子として預かりましたが、A君があまりにも他の子と違うので、どうやって育てていいかわからなくなってしまいました。私は園長でしたが、「このままではいけない。保育をもう一度やり直さなければいけない」と思って、翌年、道灌山の保育専門学校に入りました。

 当時は里親会もなく、相談相手がおらず、一人で悩み、武夫さんには怒られ、園ではA君は一日中泣きっぱなしでした。先生たちもお世話が大変でした。当時は子どものことは市役所があれこれやっており、私は児童相談所の存在を知りませんでした。初めて児童相談所と関わったのは、昭和59年にBちゃんを預かった時でした。

 専門学校には2年間通いました。午前中に保育園の仕事をして、午後から保育の学校に行きました。5時に学校が終わると、すっとんで帰ってくる日々でした。入学当時、長男小学5年生、長女小学3年生、次男は小学1年生になるかならないかでした。

 A君は虐待を受けたためか、心身に問題があり、私は世話のため、一晩中起きていたこともしょっちゅうありました。A君のお父さんに頼まれて、お金を貸したこともありました。そのお金は返ってきませんでしたが、お父さんがお困りだったので仕方ありませんでした。切ない気持ちはありましたが、毎日忙しく時間が流れており、子どもたちの世話もあるので、切なさは心のどこかに置いておいて、毎日進んでいかねばなりませんでした。

 次男はA君の世話をよくしてくれていました。当時、次男とA君は同じ小学校に通っていたので、A君の教室の机の片付けや、登校の世話をしてくれました。

悪さをしていたC君は中学校の校長先生に

 昭和56年、小学6年生の時に預かったC君の場合は、我が家に来て、すぐに本人が「丸山の名前を使いたい」と言ってきたので、通称名で学校に通わせました。大学の卒業時には、卒業証書に記載する姓を丸山にしたいから、入籍させてくれということで養子縁組しました。

 子どもの頃、C君はよく悪さをしました。我が家に来る前のある時、学校の先生から「おまえは寂しいんだろ。おれもおふくろが働いていたから寂しかった。おまえのこれからだが、良い人生と悪い人生があるぞ。どっちをとりたい?」と言われたそうです。

 C君が「良い人生を選びたい」と返事をすると、先生は「じゃあ、今日からこういう悪いことは一切やめろ」と言ってくれたそうです。C君は以前から丸山家を知っており、市役所の方に「丸山さんという家があるんだけれど、丸山さんちに行くか」と聞かれると、「施設はいやだけれど、あそこの家だったら行ってもいい」と返事をしたそうです。そして、その日のうちに我が家に迎えました。

 C君は今、中学校の校長を務めています。丸山家の恥にならないように生きてやるなんて言っています。「悪さをする子どもたちの行いは、全部自分にはわかっている。そして良い道に行きたいか、悪い道に行きたいかと聞いてやるんだ」とC君は言っています。子どもの気持ちがすごくよくわかるらしいです。

 子どもの頃のC君の悪さは、精神的なものから来ていたと思います。中学生の時、「あんた病気だね。やっていることがおかしいよ。病院に行って、専門家にみてもらって、ちゃんと直さないといけないと思う」と言いました。そしたら、悪さが止まりました。

 いろんな子どもを預かってきましたが、子ども達の問題行動には共通点がありました。時期的なものなのか、子ども達は似たような悪さをしました。悪いことをやってもやっても、やり足りず、精神的におかしいと感じました。実家の親の振る舞いに影響を受けている子どももいました。

神様に祈って迎えたBちゃん

 昭和59年、3歳のBちゃんを迎えた時に初めて児童相談所と関わりました。Bちゃんの委託の打診が来た時、ウチには男の子ばかり6人いたので、「結構です」と断りました。そうしたら長女に「なに言っているの!ウチには男の子ばかりで、一人ぐらい女の子が欲しいじゃないの!」と怒られました。

 私は悪いことしたなと思って、毎日神様に「どうぞ良いところにBちゃんが行けますように」とお祈りしていました。そうしたら、一週間後にまた児童相談所から「一時保護所がもう満杯なので、お願いできないでしょうか」と電話がかかってきました。「もう何も言いませんので、お預かりします」と返事しました。

 Bちゃんは神経質な子と聞いていたのですが、うちに来たら、「お姉ちゃん、お姉ちゃん」と言いながら、長女の後を付いて歩いて、何の問題もなくそのままウチの子になりました(平成3年に養子縁組)。

 養子縁組の際、家庭裁判所に「お母さんは高齢ですよね。どうやって育てるんですか」と聞かれました。その時、長女が「なに言っているんですか、母が育てなかったら私が育てます。私が嫁に行く時もこの子を連れて行きます」と答えました。それで、家庭裁判所のOKが出ました。

 Bちゃんは申込締め切りのギリギリになってから、長男の勧めもあって、私立の小学校に行くことになり、慌てて試験の準備をしました。その時、家族の名前を確認させたら「丸山おとうちゃん」「丸山君ちゃん(長男のこと)」「丸山雅子園長」と答えたので、また慌てて教え直しました。Bちゃんは小学校から大学まで同じ私立の学校に行かせました。Bちゃんに十分お金を使ったので、この子は何も文句をいいませんでした。Bちゃんは現在、保育士をしています。

養育は全部実子たちが手伝ってくれた

 長女は「自分は絶対に里親をしない」と言っていました。そしたら、長女の娘が高校2年生の時、「おばあちゃんも叔父さんもみんな里親をしているのに、何でお母さんは里親をしないの?」と長女に聞いてきたそうです。長女は私の苦労を見てきているので絶対にやらないと返事をしたそうですが、「私は子どもとして恥ずかしい。そういうことを言う母親を持っていることが恥ずかしい」と言ってきたそうです。それで長女も里親になりました。

 武夫さんは子育てをあまり手伝わなかったけれども、実子3人が全部手伝ってくれました。たとえば、こんな話があります。昭和55年に3歳で委託されたD君の学生時代の話です。D君はアルバイトをしながら学校に通っていたのですが、それが楽しすぎて、学校に行かず、浪人したことがありました。

 私は「いいかげんにしなさいよ、もう、ばばには月謝を払うお金がないよ」と言いましたが、それを長女が聞きつけて、長男に電話をかけました。長女は長男に、子どもたち3人でD君の学費を出し合う相談をしていましたが、長男は「そんなもの、おまえたちに払えるわけないだろ」と答えたそうです。そして翌日、長男が全額払ってくれました。D君は長男に2年も学費を払ってもらいました。

D君の結婚式にて
前列左:武夫さん 右:雅子さん
後列左から:次男智也さん、長男浩一さん、長女珠実さん

 D君が結婚した際には、披露宴の家族挨拶の時に実子3人と私で並んで「これが私たち家族です」と言って出ました。その当時、D君はアルバイトの身でした。アルバイト先の上司が結婚式に出てくれて、「なぜD君と同じ苗字の人が出席していなくて、丸山姓ばかりなのか?」と受付に聞いてきたそうです。受付の人が事情を話したら、上司は感動して、「D君は絶対にウチの会社に入れますから」と言ってくれて、正社員として入社することができました。

落第とバケツの水と就職と

 平成10年、11歳のE君を預かりました。E君のお母さんは外国人で、E君は小学5年生になるまで学校に行ったことがありませんでした。保護された日にウチでE君を預かりました。E君はマンガを読んでいて、ひらがなは読めたので、ウチでは九九を一生懸命教えました。おさなご園の事務をやっていたUさんのご主人が横浜国大を出た穏やかな方で、E君に勉強を教えてくれました。中学へは遅刻欠席なしに通ったので、成績は良くありませんでしたが、その頑張りを評価してもらって、高校に進学させました。

 高校を卒業したあと、E君は自動車の専門学校に進学しましたが、ろくに学校に通わず、高い月謝を使い込んでしまうことがありました。E君はしらを切って、謝りもしなかったので、ある日、バケツに水を汲んで、ベッドで横になっているE君にジャーっとかけました。

 E君は「何だよー」と言いましたが、私も「起きた?じゃ、後始末して、服を着替えて学校に行きなさい」と言い返しました。お世話になっていたUさんのご主人にも「バケツの水をかけられて、どう思った?」と聞かれたそうで、E君は「頭にきた」と返事したそうです。そこでご主人は「それはそのままお母さんの言葉だ」と言ってくれたそうです。

 E君は学校を2年も落第しましたが、なんとか卒業することができました。卒業する時に、「あんた、この卒業証書さえあれば仕事できるんだから、あとはがんばりなさい」と言いました。E君は大きな会社に自動車整備士として入社し、辞めることなく続けているので、現在、役職も上がっているようです。次男がE君の会社に車の整備を頼みに行くと、E君の上司から「良い弟さんですね。本当に良く働いてくれまして」と言われるので、恥ずかしくて帰ってきたくなるそうです。

子ども達の幸せを祈らない日はない

 おさなご園には父子家庭の子どもたちも通っていました。父子家庭のお父さんは夕方5時に園に迎えにくることができません。なので、その子たちも私の自宅に上がらせて夕食を食べさせていたので、いったい何人の子どもたちにご飯を食べさせていたのか、数え切れませんでした。委託解除後に実家から家出してきて、ウチで生活していた子もいましたし。

近影。おさなご園の園庭にて。
おさなご園は令和2年4月に新園舎に移転予定。

 里親として、23人預かってきましたが、一人ひとり歴史があり、語りつくすことができません。境遇がかわいそうで、思い出すのも辛い子もいます。今でも心配している子ども達がいます。その子達には何もしてやれませんでした。その子たちの幸せを神様に祈らない日はありません。

 里親というものは、やってみないとわからないものです。相手がいることですし。そして、子どもを預かってみて、「養育がもうダメだ」と思ったら、もうダメです。もう一日やってみようと思う気持ちがあったら、その一日、その一日が一年につながります。

 現在、私は一人暮らしをしています。里親登録からは退きましたが、つい先日まで、知り合いのアメリカ人の息子さんを預かっていました。武夫さんは施設暮らしをしていますが、元気にしています。

結び

 里親をさせていただき深く感謝しております。振り返ってみれば、私のところに来た子どもたちは皆、すごい背景を持っていました。でも、お預かりした時から私はその子の母親になりました。私とかけ離れた経験の渦の中にいた子達でも、「今日から私の渦の中に入って一緒に人生を歩もうね」と思い、子どもの悪い癖をしっかり受け止めて、私も大きく変化させられました。

 お預かりした子の多くは両親との関係を持っており、その両親との関わりにも心を配り、模索しました。また、児童相談所の実親に対する対応が私の思いとかけ離れていて、思い余ることもありました。でも、ぐずぐず言ってもおられません。毎日子ども達との生活に追われ、仕事もあり、あっという間の時間でした。今回お話できなかった子ども達も多くいます。今も交流が続くなか、一人ひとりの良き人生を願い、子どもが生まれたら「子どもを手放さないで」と願っています。

 どんな子どもでも時が来たら会いに来てくれ、近況を語り、喜び、笑い、私をなぐさめてくれます。本当にうれしいことです。行く場所のない子がいたら、まだ2、3年なら私と一緒に歩める子は「ご一緒しましょうよ」と言いたいです。

令和元年11月13日おさなご園にて拝聴

取材:アーカイブスプロジェクトメンバー(横田尚志・西野奈穂子・石井敦)

昭和14年 雅子、満州新京に生まれる。
昭和21年 満州から引き揚げる。
昭和38年 丸山武夫と結婚し、東京で生活開始。同年、長男浩一誕生。
昭和40年 長女珠実誕生
昭和41年 東京から埼玉県川口市に移転。
昭和43年 次男智也誕生。
昭和44年 おさなご園(託児所、現在保育園)開設。
昭和46年頃 里親登録。
昭和47年 道灌山保育専門学校に入学
昭和49年 道灌山保育専門学校を卒業。
平成31年 里親登録を勇退。
(里親登録から勇退までの約48年間23人の里子を預かり養育)