小学5年生の時、地方から東京に移り住みましたが、我が家は貧乏のどん底にあり、翌年、私は日比谷公園で新聞売りを始めました。新聞を売っていた場所には、アメリカ人のNHK記者の方がいつもいました。近くでバスを降りてくる女の人を待っていたのです。そのアメリカ人の方は漢字が読めるので、新聞を横目で見ながら、「いよいよ〇〇ですね」などとよく話しかけられました。そして、私のためにガムやヌガーをそっと置いていって、女性がバス停に到着するといなくなるんです。
クリスマスの時、その女性が私のところに来て、「すみません、ジャッジさんという方があなたのために洋服を買ってあげてほしいと言っているので、ちょっと一緒に行きましょう」と言って三越に行きました。三越ではワンピース、靴、マフラー、オーバーを買ってもらいました。NHK にも遊びに行かせてもらって、お茶を飲ませてくれて、ショートケーキを食べさせてくれました。
母は「子どもたちにそういうことをしてくださっても、何もお返しすることができません。私たちは貧乏ですから」とジャッジさんに言いました。するとジャッジさんは私の顔をじっと見て、「あなたが大きくなって、人に何かしてあげられるようになったら、そうしなさい。それが人に返してあげることですよ」とおっしゃったんです。
ジャッジさんのその一言が私の人生の宿題になりました。それ以後、お電話をいただき帝国ホテルで一度ご馳走になったきりですが、この宿題に向き合い続けることがお返しだと考えて生きてきました。
その後の人生では、困っている子どもに対して「 何かあったら一緒に来なさい。一緒に生活しよう」と伝えてきました。それを何かに変えたいとか、お金にしたいとか思ったことはありません。子どもが何とか良くなってくれれば、それでいいのです。ジャッジさんから「人にしてあげなさい」と言われたな、と思い出すことがよくあります。
いろいろなことがあったので、自分の人生はドラマみたいだなあと思うことがあります。満州から引き上げてきたり、いろんなことを通して、私自身生かされてきたなあと思います。満州で肺病になって死ぬはずのところを死なないですんだり、満州に置いていかれた子どももいたのに、ちゃんと日本に帰って来られたり。だから、少しぐらい子どものひどいところを見ても、「あーそうか、私でもそうなっちゃうなぁ」と思うくらいです。 |